阪神大震災 震度7の経験と教訓


大きな地震のニュースが放映されるたびに、あの日のことを思い出します。

それは、1995年1月17日に起こった
阪神大震災のことです。
私の人生において、もっとも衝撃的な経験です。

生まれて初めて、死を覚悟した経験でもあります。
幸い、死ぬことも怪我をすることもなく、
その後の人生を、つつがなく歩んでいますが、
あの地震を境に、人生観が変わりました。

私が経験した地震の様子と、その経験から得た
教訓について書き記しておきたいと思います。
大地震の備えの、何かの参考になれば幸いです。

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地震発生時の我が家の様子

私の家(マンション)は、兵庫県西宮市にあります。
下の地図の星印の所です。

震度7帯

震源から連なる活断層の東端で、自宅の直下にある
甲陽断層という断層が動きました。
震度7の激震地に位置しており、ここで
阪神大震災を経験することとなりました。

当時、私は5時40分に目覚ましをセットし、
6時前に床から出る、という生活をしていました。
地震が起こった5時46分は、一度目の目覚ましが
鳴って、うとうととしていた時です。

一度目の大きな揺れが来る直前に、
異様な雰囲気に気付き、アレ?と思いました。
何というか、空気がビリビリビリと
震えたような感じでした。

その次の瞬間、ドーンという大きな音と共に
体が宙に浮きあがりました。
ビックリする間もなく、ガッガッガッガッガッと
物凄い揺れと、それに伴う大音響が来ました。
耳をつんざくほどの凄まじい音でした。

わが家は活断層の真上にありますので、
横揺れはほとんどなく、猛烈な縦揺れに
見舞われました。

第一印象は、「これは、はたして地震なのか?
といった疑問が湧いたことです。
というのは、それまで地震というものは、
「グラグラ」とか「ユラユラ」という、
オノマトペ(擬音語)で表現されるようなもの、
と思っていたからです。

だから、次に思ったことは、
「マンションに飛行機でも突っ込んだか?」
「それとも、近くに隕石でも落ちたか?」
あるいは、
「下の階で、大きな爆発事故でも起こったか?」
といったようなことでした。
それくらい、今までの地震という概念を
打ち破る激しさでした。

大地震であることが分かったのは、
一回目の揺れの直後に来た、二回目の揺れの頃です。
布団の上に四つん這いになった時に、
また激震が襲ってきました。

その時に感じたのは、
「これは、建物がやられるな、
ペッちゃんこになって、死ぬかもしれないな」
という死の予感です。

恐怖を感じる暇もなく、
「やられる~、あかんわ~」みたいな感覚でした。
ちなみに、頭の中で走馬灯は全然回りませんでしたよ(笑)

揺れている時間は、長かったのか短かったのか、
分かりません。
揺れ方が凄いので、耐えるだけで必死なのです。
まったく何もできませんでした。
揺れ方は非常に、鋭角的かつ攻撃的で、
マンションを無茶苦茶にシェイクされているような感じでした。

揺れが収束に向かった時に、まず感じたのは
「このマンション、ようもってくれた、生きてる♪」
という感謝の気持ちでした。

 

地震直後の意外な状況

揺れも収まり、とにかく起き上がろうと
した時に、ちょっとしたトラブルに
見舞われました。
枕元に置いていた、眼鏡がどっかに吹っ飛んで
見当たらないのです(汗)

眼の良い家内は、すぐに飛び起きて
居間のほうに行って、わあー!とか
叫んでいるのですが、ド近眼の私は、
眼鏡がないと身動きがとれません。

当然ですが、停電して周りは漆黒の闇です。
頭の上方にあった神棚から、いろいろなものが
落ちてきていて、そこらじゅうに散乱していたので、
手探りで眼鏡を探すも、大難儀しました。

ようやく眼鏡を探し当て、私が一番に
したことは、ベランダに出て、周囲を見たことです。
うちのマンションは、山の斜面に建っており、
ベランダから西宮市以東の街並みが
広く見下ろせます。

この災害が、どの程度の規模のものなのか?
このマンションだけか?町内か?市内か?日本か?
それとも地球規模なのか?
まずそれを知りたいと思いました。

ベランダから、町を見下ろすと、停電のため
見渡す限り真っ暗で、この地震が相当広域に
及んだことを、理解することができました。

次に気が付いたことは、これが意外なのですが、
町は静まり返っていて、まったく何の物音ひとつ
聞こえないのです。
シーンと不気味に静まり返っています。

普通ならば、6時前ともなれば、車が行き交う音や
新聞配達のバイクの音や、どこかの犬の鳴き声が
聞こえるのですが、見事に無音状態です。
マンション内からも、人の声や物音は
まったくしません。

想像できないようなことが起こると、人間は
絶句してしまって、騒ぐこともできないようです。
成す術がなくなるってヤツです。
人間だけでなく、犬や、鳥も静かになったようでした。

その静寂が、あまりも異様で、しばらく茫然と
眺めていると、突然、眼下の先の住宅の一か所から
ボッと火が上がりました。

「ああー、大変や、火事やで~」といって、家内と
その燃える様子を見ていたのですが、
5分経っても、10分経っても、消防車の
サイレンの音も、パトカーの音も、何もしないのです。
静かな暗闇の中で、火だけがどんどん大きく
なっていきます。

 

周りが白み始めるころには、さらにもう2か所から
火の手が上がるのが見えました。
でも、ただ燃えているだけで、消火活動が
されている様子はありませんでした。
この頃になって、ようやくとんでもないことが
起こっているんだ、と感じ始めました。

広域災害の怖いところは、誰もすぐに自分たちを
助けに来てくれないことです。
起こってしまった事象に対して、初動の対策は
自分自身の力でやらなくてはなりません。

災害の第一波が去ったあとに、体が動く状態であれば、
人を頼らず、まず自分が今できることを考え、
素早く行動してゆかねばなりません。
これを、心得て、肝に銘じておくことが、
まず、第一の教訓となりました。

大きな地震に見舞われたことが良く分かったので、
次にしたことは、住んでいるマンションの
被害状況の確認です。
今いる場所が、安全なのか、非難すべきなのか、
これを自分の目で確かめようと思いました。

幸い、私のマンションは、
築2年弱の新しい物件だったので、
ダメージは受けたものの、住める状態で
持ちこたえてくれているようでした。
マンションの下が、大きな岩盤とのことで、
そのことも幸いしたそうです。

 

まず一番に水の確保

一安心して、次に私が起こした行動が、
あとあと大正解でした。
それは、「水を貯める」ということをしたのです。

勿論、すでに広域で断水しているのですが、
うちのマンションは、水を一旦屋上のタンクに
ポンプで上げてから、各戸に下すような構造です。

私は、長期の停電や、断水を予感したので、
このタンクに水があるうちに、貯めておこうと
思い付きました。
浴槽を始め、バケツや洗面器、鍋や釜に至るまで
貯めれるだけ貯めました。

タンクの水は、この日の昼ごろに空に
なりましたので、早くに水確保の重要さに
気が付いて幸運でした。
当時は、災害時の備えや対策などについては、
誰もが他人事だったので、現実に起こったことに
「ただただ動揺するだけ」だったようです。

このおかげで、救援物資としての飲料水が
届くまでの、3日間ほどを乗り切れました。
さらに、絶対になくてはならない生活用水を
ある程度確保することができました。

阪神大震災という大きな災害にあって、
初めて知ったのですが、
飲料水は割に早期に手に入れることができます。
救援物資として、届くからです。

ところが、手や顔を洗ったり、
お手洗いを流したりする(停電していても、
水があれば、お手洗いを流すことができます)
生活用水は、断水期間中ずっと不便します。

とりわけ、災害直後の数日間は、
いろいろなことで大混乱します。
この時期に、当面の水の心配をしなくて
過ごせることは、めちゃめちゃ有難いことです。

このような経験から私は、
「何が何でも水を大量に確保しておく」
ということを最大の教訓として、事あるごとに
叫んでいます。

量としては、家族1人につき、20リットル
目安にしてよいと思います。
わが家は今、3人家族ですが、ベランダに
140リットルの水を常に置いています。

非常用水

水は、ベランダや軒下に置き、定期的に
入れ替えをするようにします。
入れ替えておくことにより、飲料水としても
使うことができます。

私の場合は、たまたま、地震直後に
水を確保できましたが、大事なことは、
日ごろからちゃんと確保しておくということです。

これが最大の教訓と言えます。
難しいことは何もありません。
ポリ缶に水を入れておくだけです。
どうか、これだけは最優先で、
準備しておいていただきたく思います。

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町の様子

家の中をざっと一段落させて、
自転車で町の様子を見にゆきました。
阪神大震災当日の午前10時ごろでした。

自宅の近所は、道路や歩道がいたるところで割れていたり、
塀や電柱が倒れていたり、傾いた家が
いくつかあったりしましたが、被害は深刻では
ないと感じました。

広い範囲で、ガスの臭いがしていたので、
ガス管がやられたことが分かりました。
同時に、ガス爆発の恐怖を感じました。

様相が一変したのは、被害の大きかった
西宮市の中地区に差し掛かるあたりからでした。
ここも震度7エリアです。
このあたりは、古い木造住宅が多く、
多くの住宅が倒壊していました。

また、自宅ベランダから見えた火事もこの地区で、
消火はされていましたが、まだくすぶっており、
焦げたいやな臭いが立ち込めていました。

悲惨であったのは、まだ多くの人が
倒壊した家の中に閉じ込められていたことです。
救助の人や家族が、がれきの中に向かって
声を掛けたり、救助活動をしたりしていました。

助け出された人は、一応にがれきの土埃で
ひどい汚れようで、道端で茫然と座ったり、
道路に敷いた布団の上に寝かされたり
していました。

中には、まったく動かないおじいさんも
おられて、生死のほどが分かりません。
でも、そこに寝かせて置く以外、
どうしようもないようでした。

この時点では、自衛隊も警察もまだ
動いておらず、町の消防団の人が中心になって
救助活動を行っていたように思います。

私は、近くの夙川というところに住む
姉一家が心配で、救助活動を手伝うこともできず、
阪急電車の高架下を夙川方面に向かって走りました。
この夙川も震度7で揺さぶられていました。

その途中で、本当に信じられない光景に
出くわしました。
阪急の高架が完全に崩壊して、レールや
枕木が高架下の道路から、手で触れるほどの
ところにぶら下がっているのです。

DSC03251

これは、私が毎日通勤で乗っている区間です。
もし、地震発生がもう一時間遅かったならば、
電車ごと、あの世に旅立っていたかもしれません。
そう考えると、九死に一生を得た心持でした。

姉の家は、木造2階建ですが、何とか立っていました。
しかし、一階部分が平行四辺形にへしゃげており、
天井も下がって、非常に危険な状態でした。
一階部分に、大量の本とそれを入れる本棚があり、
それが、2階部分を支えてくれたようです。

両隣と向かいの家は、完全にぺちゃんこになっており、
中に人がいるのか、いないのかも分からない状態で、
よくぞこの一軒だけが残ったものだと、
幸運に感謝しました。

このように周囲を含めて全壊状態のなか、
幸い姉一家は、奇跡的に全員無事で、
本当に安心しました。

一方、私の母は、この地震当日の朝早くから
友人の車で京都方面に出掛けていました。
豊中市内を走行中に、地震に遭いましたが、
そこから、約20キロを徒歩で帰ってきました。
途中で、阿鼻叫喚の修羅場を見ながら・・・

夜には、家族親戚全員の生存と無事が
確認でき、ありえない非日常の経験をした
怒涛の一日が過ぎようとしていました。

ここから、生活するための工夫が始まりますが、
長くなりますので、また次の記事で書きたいと思います。

次の記事はこちら
阪神大震災 地震から得た教訓は意外なものだった!

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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